Column
Photoshop world Reportage
     
  永戸鉄也 [Collage]  
vol.3 [転機 ]
 
       
ニューヨークから帰国し、PC を手に入れ、コラージュという手法を武器に、オリジナルなアートスタイルを手に入れつつあった永戸さん。でもそのスタイルが実際に世に認められ、そして仕事として回り始めるまでには、かなりの道程があったようです。転機となったのは2004 年、その年に、櫻井敦司(BUCK-TICK のボーカリスト)とUA という、2 人のすごい才能に出会い、そして永戸さんの才能も一気にオーバーグラウンドへと花開くのです。
ニューヨークで描いた絵は、まとめて捨ててました
Photoshopworld Staff(以下、PW)「ちなみにアメリカから帰ってきたのが1996 年ですけど、 それからの生活というのはどうだったのですか?」

永戸鉄也(以下NT)「そこら辺は自分で絵を描きながら、遺跡の発掘のバイトをやったり、バンドをやったり、あと自主映画撮ったりーーーそういうことやってたんです(笑)。ただバンドをやってみて、やっぱり共同作業はオレには向いてないなあって(笑)、そこでさらに自主映画を共同脚本・共同監督でやってしまって、それで完全に共同でやるのがイヤになって(笑)。もともとはじめは一人で絵を描いてたんだからって、そっちに戻ったんです」

PW「共同作業、ダメでした?」

NT「ダメでしたね。いまはそこを一回乗り越えてますから大丈夫なんですけど、そのときはひとりで籠もってMAC 覚えて、絵を描いたりデザインしたりして。で、出来た作品をだんだん人に見せたくなって…自分の中ではなぜかデジタルだと見せやすかったんですよ。キャンバスに描いた絵を画廊に持ってくっていう発想はなかったけど、デジタルだと気軽に雑誌社に持って行ったりして。そこで何かひとつ変わったんですよね」

PW「それまでは自分の作品集を持って行くとか発表するとか、外へのアプローチはしなかったんですか?」

NT「ないです。だからニューヨークでも絵を描いてたけど、まとめて捨てたりとか」

PW「捨てる!?どうして?」

NT「いや、なんかね、偏屈なのかわかんないけど、絵を描いて個展やるとか、発表すること自体、自分の中ではしっくりきてなくて。額に入れて絵を見せるとかふざけんな、くらいに思ってましたから(笑)」

PW「でも捨てるなんて、もったいなですねえ」

NT「いや、それはもったいないとは思っていなかった」

PW「じゃあ、絵は発表するために描いてたわけじゃないんですね」

NT「発表するためじゃないですね。描きたくて描いてっていう感じですね。そこにそれ以上のものはなくて」

櫻井敦司さんは、一連のものを好きにやらせてくれた
櫻井敦司 アルバム
『愛の惑星』
(2004年6月リリース)
櫻井敦司 シングル
『SACRIFICE』 (2004年5月リリース)
櫻井敦司 シングル
『胎児smell』
(2004年5月リリース)
PW「それでバイトしながらデザインの仕事も始めたわけですね」

NT
「そうですね、通販のCD パッケージやブックレット作ったりとか。そういうやっと取れたような仕事でギリギリで生活を続けて(笑)。だから音楽のパッケージを作ることに関して、そういう実務的な下積みはしてたんですよ。そういうのが全部わかりかけてきた頃に櫻井(敦司)さん(※BUCK-TICK のボーカリスト)に巡りあえて」

PW「それはどういうきっかけですか?」

NT「ビクターのヴィジュアルコーディネイターの人にポートフォリオを見せに行ったことがあったんですけど、櫻井さんがソロプロジェクトを始めるときに、彼がそのデジタルコラージュ作品が入ったポートフォリオを櫻井さんに見せたら、この人で行きたいってことになって。そこにはデザインものって一切入ってなくて、ただ絵だけなんだけど、なぜか彼はデザインも写真のディレクションもすべて任せてくれて…それでAD(アートディレクター)っていう立場に初めてなれたんです」

PW「それは何かピンとくるものがあったんでしょうね」

NT「そうでしょうね。アルバム1枚にシングルが3枚、DVD が2枚と、あと特典のCDがあったりーーーそれを全部、好きにやらせてくれて。それでこの一連のものをやらせてもらったことで、これまでたまってたものが一気に仕事と繋がってきたんです」

PW「特に仕事向けに何かを変えたとかは?」

NT「いや、そういう感じはまったくなくて、いつもの絵を作ってるのと同じ感じでやってたから。そのタイミングとUAとの仕事が同じ時期なんですよ」

       

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