「セルアウトがなければ、君らのクリエイティブへの目醒めはなかった」「NEW なタ イプの作品は資本の道具じゃない!」マスvs. コアな抗争の図式で応酬される言葉。が、そこに落とし穴があった。自らの内なる表現欲求までもが、実は消費システムの産物だったとしたら? “ オシャレ” な“ 表現” でちやほやされたいのに“ 消費反対” なる自己矛盾。浅薄な動機からは相応の結果しか描けない。“ 個性” を絶対視したがる風潮の裏に慢心あり。「人がそんなに便利になれるわけない」のだった。 そんな“ わかりやすい” 風潮にあって、わかりやすそうでわかりにくいのがシュナーベル・エフェクツこと佐竹穣の作品。「善し悪しは二の次で印象に残る華のある表現、ピンナップ的(写真の善し悪しよりもスターが命)な表現をしたい。スタイルも人任せに変えていこうと思います」と語り、グラフィック魅力を「印刷してしまえば何でもアリなところ。流行に左右されやすく、みんなの表現が真似しあって似てくるのも面白い」と答えて悪びれない。両眼が反転した顔のCD ジャケットは「気持ち悪いぎりぎりアウト作戦」、スタイリッシュなコラージュにわざとキッチュなキャラクターを登場させるやり方については「開き直りました。いちご大福と同じでミスマッチと思わせる作戦です」。 まさに喰えない男、個性という名の売り言葉に煽られ狂奔する衆愚を煙に巻く。それが店舗内装などのセンス商売から高い支持を得ているという痛快さ。かくして喰えないグラフィックは流行り廃りに喰われることなくクリエイティブ幻想の寝首をかいて、喰いたがりの傀儡(くぐつ)どもをぐんぐん駆逐していくのであった。